2006年07月06日

境界線の代わりに使っているもの

このブログを読んでいる方の中には、「自分てかなりの批判家だな」とか、「人との距離感が近すぎると、なぜだか人に嫌悪感を抱いてしまう」と、ココロの底で悩んでいる方も多いのではないかと思いますニコニコ今日は、そんなお話です…赤ハイビスカス

3ヶ月くらい前のコーチングのセッション中に。そろそろ、バウンダリーの件で、いろいろな気付きがあったころのことだったと思います。コーチの方に、「ヒーリングの仕事をしているときは、どんな感覚でパイプ役をされていますか?批判や人への嫌悪感はどうされているのですか?」と聞かれ、「その瞬間だけは、何があってもあるがまま受容できる私になれるんです。普段のクセを一切脇においておくテクニックを、何回か痛い目にあって身につけたんです。でも、日常で24時間これをやると、疲れます。本当に、一切の批判をしない楽な私になりたい」と、答えました。ヒーリングの仕事も3年目、だんだんとこういう職業柄の見えないテクというものも、実際ついてくるものです。

コーチは、続けて質問してきました。「では、あなたがココロから一切の批判をしなくなったときの状況をイメージしてみてください」…、…、…。「何よりも、私自身が楽な感じですね。自分のこと、意識している以上に責めているのかも…。う~ん、でも、批判を一切しないという感覚をイメージするとなんだか、無防備になった感じがして怖さを感じます」と答えました。コーチの方は、「批判すると、人と距離ができますからね」とフィードバックしてきました。

そのときに、分かった。批判、そして距離が近づきすぎたときに感じる人へのうっすらとした嫌悪感の正体。いつも、不思議だった。人見知りだけど、こんなに人の好きな私が、なぜ人の批判をしてしまうのか?純粋に不思議だったんです。

人への批判や、至近距離に来たときのうっすらとした嫌悪感はね、バウンダリーが確立していない間だけ、バウンダリーの代わりに使われるものだったんです。これがあるから、自分が誰だか、ホンキで100㌫わかんなくなるって状態を避けることができる。人は、誰しも、人から認められたいという、基本的な欲求を持っているので、批判をする人には、無意識に身を守るために、微妙に距離をおいてお付き合いをするのです。また、うっすらとした嫌悪感も、感じていて心地の良い感覚ではないので、そんな感覚が消えるところまで、バウンダリー未確立のご本人も人と距離を置きます。こうやって、ハリネズミのように、心身を守るのです。

あ~、ストンと腑に落ちた。これ、全く違うことだけれど、コーチングのクラスでNLPを習ったときにも、気がついたことがあります。車の運転をするにあたって私にはスピードの恐怖があるのですが、関野氏が「これ、簡単に取れますよ」とおっしゃった。そのとき、私は、嬉しいより、さらなる恐怖を感じ、これは取り去りたくないと思いました。で、そのときに気がついたこと。スピードへの恐怖は、私は必要として持っているということ。運転が下手だから、命を守るために、持っている恐怖感だったんです。ドライビング・テクを向上させないうちに、スピードへの恐怖を取り去ってしますと、今度は命の危険が出てくるでしょ?で、関野氏に「けして、心地良くない感覚でも、今一時必要として持っている感覚は、ないですか?何でもかんでも、NLPでとればいいってもんじゃない気がするのですが?」と質問すると、「そこが、注意点だよ」といわれました。だから、クライアントさんとのコミュニケーションが必要なのですが。

これと同じことが、バウンダリーの未確立の方にも言えます。バウンダリーを確立し始める前に、批判のクセ、嫌悪感を感じるクセを抑圧したり嫌ったりしないほうがいい場合があるということ。本当になくなると、あなたの中に、たくさんの人様の感情がなだれ込んできて、下手するとノイローゼ状態にいくと思います。今、思い返せば、一時そんな風になったことがあるんです、私。高校時代だったかな。

だから、イタズラにいい人を演じる必要はなく、この感覚で、自分を守ってきたことに、自分とこの感覚たちに感謝をして、それから、実際にバウンダリーの確立に向けて行動を始められることをオススメします。バウンダリーが確立されてくるにつれ、自然と人への批判、至近距離に来たときの嫌悪感は薄らいでいくんです。

本当に人の体とココロは、精密機械のよう。宇宙が、地球が創ってくれた、この上ない地球服。こんなにも、繊細で、こんなにも緻密で。そして、素晴らしい。自分の体、心。いくら尊重してもしすぎることはないのかもしれません赤ハイビスカス



Posted by 詩織 at 00:42│Comments(4)
この記事へのコメント
う~~んGreat! d( ̄∠ ̄)

納得いきますね~
だからかぁ~~(゜o゜)

自分自身でいるときは大好きな自分でいられます。
人の批判を始めてる自分に気づいた時
そんな自分に対して嫌悪を抱きつつも
『なんでだろう?』と思っていたから・・・・・

エゴ・・・
自分で自分を守ってるものかもと思っていましたが
本当にそうですね~
やっぱり、ありがとうだな(#^.^#)

あたいは小学5・6年から中1くらいの頃
ぴったり自分にはまってる自分でいられた。
それが意識できた・・・
大人になるにつれ忘れ、その時のことを思い出しても
どうやったらその時みたいにできるのか分からなくなっていました。

今少しずつそこにもどっているかな★
Posted by はな at 2006年07月06日 11:52
3年前に、山川夫妻の講演会に行ったとき、こんなこと言ってました。人は、自分の持つ宝の凄さに気付くために、人生の一時期、それを失って、再び取り戻す形をとることがあると。
私もね、このことばを聴いたときに、小さいときのシアワセを忘れた理由を知った気がしたの。きっと、もともと持っていたものは、とりもどすことができるし、そのときには、その宝の本当の価値が分かる。その分、も~っと豊かな私たちになっていると思うんだ^^
Posted by 詩織 at 2006年07月06日 14:01
うん、私もストンと納得!

私の場合
自分が誰かを批判しているときって
自分の一番弱い(と自分で感じている)部分だったり
自分を責めている部分なんかが
他者から脅かされそうになっているとき。

また、傲慢さで自分の欠落部分を満たそうとしているとき。

それって、光である自分をまったく信頼してないこと。

この数年、
自分自身が愛と光の存在であることを経験するにつれて
自分自身への信頼を取り戻しつつあることを実感している。

それに伴って
依存すること、されることが「意識」できるようになり
人間関係が楽になってきた。

そうすると
するするする~と「気持ちいい人たち」に繋がっていくんだよねー。
不思議~。

でも、「この課題はオモイぜ」という出来事も
やってくるのですがねー。

それでも、人間関係のウズに巻き込まれずに
何とかニコニコ歩いていられるのは
自分にとって、その人その人にあわせた「境界」を
自然に創り出すことができてきたからなのかなあ。
Posted by ゆゆ at 2006年07月06日 17:41
ゆゆさん、一歩一歩努力した価値はあるんですね~やっぱ。
うん、アタシ的には人間関係が楽になったきたというのは、成長の証しだと捉えています。
Posted by 詩織 at 2006年07月07日 08:43
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